私の現在の塾講師になるまでの生い立ち(簡単に)

こんにちは。相城です。私が塾講師になるまでの生い立ちです。R5.11.12現在

現在の塾講師になるまで

小学校のときは勉強が嫌いで友達にテスト受けてもらったりしてました。目立ちたがり屋で高いところから飛び降りて足にヒビ入ったりするとんでもない奴でした。昆虫は好きでしたね。
中学校のときもその延長で昆虫採り, ガンプラなどにはまっていました。ラジコンも覚えたのかな?少し悪さが過ぎて補導されたのもこの時期。まぁ勉強なんて学校の授業は聞いてたのかなぁ?成績はいつもビリの方でした。よくわからんけど好きな子に恥ずかしいところは見せられな気持ちで, 取りつかれたように勉強したら, 徳島で当時言われてた総選(城東高校)に進学してしまいました。
高校では相変わらず勉強はしませんでした。好きな子と付き合ってて, 模試代をデート代に使ってたりしました。この時期お洒落に目覚めたり, アルバイトしてお金稼ぐことを覚えました。やんちゃが過ぎて大変なことにもなりました。高3のときに高松予備校に夏期講習だったかな?参加して塾ってわかりやすいなって思いました。その頃には親戚のおじさんに大学への数学がいいということでそれを使って勉強してました。これが数学が好きになるきっかけでもありました。高3のとき, 推薦もらいに行ったらお前にやる推薦なんてないって言われました。志望する大学は全部だめで, 浪人かなと思ったら, 母がこんな学科ができるんだって, ということで愛知工業大学の情報通信工学科を受験し, 運よく合格。進学する。
学生時代は色気はなく, ビリヤード, カラオケ, 麻雀の日々。フランス語も授業は受けたけど覚えた言葉はアンドゥトロぁだけ。教師になるための単位を取ろか悩んだが, 面倒なのでやめた。ただし, DFTにはまって, 研究したくなって4年生で電電公社(NTT)から来た岸正七教授のゼミに入る。スパルタで緊張の毎日だったがいい勉強が出来た。東海大会, 全国大会の論文はなんとか書けた(記憶が曖昧だが)。STDFTをやりたかったが, ハードウェアをやる人がいなかったので, それを買って出た。病気を患ってたため, 卒論はみんなと時期がずれて発表した。
病気のためなかなか就職が決まらず, 愛知県のトヨタの下請け会社に就職する。そこでエンドミルと出会いはまる。いろいろやってみて, 現在このサイトで公開中の四角形状のリブエンドミルの作り方を発見。その会社とその周辺で, いろいろあって退社し, 徳島に帰ってくる。当時では珍しい?機械加工やJavaアプレットのサイトを作って遊んでた。何か職に就かなきゃってことで, 職を探す中, 私は朝が弱いことで, 迷惑かけることがよくあったので, 昼から出社で時給もよかった塾の講師になることを決意。当時四国進学会の系列だった錬成ゼミ?だっかな。そこへ応募し, 非常勤として採用され勤務する。これが私の塾講師としての第一歩である。そこでしばらく務めたが, 勤務の都合で一旦やめて, 居酒屋のバイトをした。年齢も30に近づいてきたので, ちゃんと定職に就こうと思って, 再度塾の仕事を探して正社員として就職したのが当時の学進スクール(当時代表:成清)というわけです。そこで, ちゃんと数学の勉強し何年か務めて, まだ機械加工に未練があったので退社し, 高知県の菱光精機株式会社に就職し, ロウ付けチップのメンドレス加工の導入に従事し, 導入に成功して再び徳島へ。伸学舎に一旦内定もらうも, 勤務体制を理由に断り, スクエアという塾に務めることに。しかし, そこでもいろいろあって何年かで退社。数樂のサイトを本格的に作り出したのもこのころ。しばらくして, 再度伸学舎の門をたたいて, 就職し現在に至るという訳である。まぁ色んなところで, 色々ありますし, 色んな環境もあるし, 色んな人いますねってのが勤めてみての感想ですね。まぁ給料は最初に務めた愛知県のところの給料を超えたことがありません。それが残念と言えば残念ですね。
皆さんには, まぁ俺みたいになるな?とまでは思いませんが, まぁもっと健全な(賢い)道を選んでください。

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